トンネルを抜けるとそこは雪国だった。
川端康成の名著「雪国」の冒頭である。
冒頭であると思っていた。
正確には
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」である。
Yahoo知恵袋にて、同じ間違いをして、怒られているものが居て、勉強させられた。
同じ間違いを犯しているものが居るということは、何か理由があるはずである。
「長い」がついていなければいけない。
「そこ」はあってはいけない。
このように力説されている方がいらっしゃったが、
そこまでの拘りなく、良い文章だと思うのだが、それでは駄目なのだろうか?
川端康成本人でさえ、冒頭は13年かけて、何度も修正されている。
だからこと重要だと考えるのか、いくつかのパターンの中で、読み手の心に残ったいくつかの冒頭についても、正解であったのかもしれないと考えるべきなのか、どちらでも良いと思うのだ。
日本語というのは、その曖昧さが取り柄であり、どのように表現したとしても、読み手にまかせている文章の書き方が様々にあるわけだ。
そこは、それほど重要では無いと思うのだ。
そんなことはさておき。「雪国」である。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」である。
この有名な文章を借りて表現するのであれば、
「国境の長いトンネルを抜けると、アドセンスは、今日も同じメッセージを表示するのであった。」
別に「長い」がついていようが
「そこ」があろうが、なかろうが、どんなに頑張っても情緒だとというものが表現できる文章にはならないのである。
それが無関係であることが証明できた気がする。
「まさかアドセンスから、雪国の冒頭を力説する日が来るなんて、夢にも思っていなかった。」
(これは20年後の名言になっているかもしれない文章である。)